2011/07/11

震災から4ヶ月

3月11日14時46分。あの時はクラスの真っ最中で、私はかなり冷静に指示を出し行動をしていた。皆の前に立つ「先生」をしていたから、ある意味ロールプレイングをしていたのかもしれない。恐怖を実感・体感しないよう麻痺させていた。

一方で、「怖い、怖い」と震えてしがみついてきたり、半べそをかいたり、興奮してやけに声が大きくなったりハイパーテンションになったりしているインストラクターや生徒たちもいた。

しかし、翌日から私をはじめ多くのインストラクターが休みを取る中、率先して代行を引き受けてくれた数人のインストラクターは、あの日に怖いと叫んでいた人たちだった。間引き運行の電車や余震をものともせず、「いつものスタジオのいつもの先生」を頼ってやって来た生徒をどっしり笑顔で迎えていた。

ちょうどそれとは逆で、3月12日からの私はとても弱虫だった。あの時に感じなかった分の恐怖を後からわざわざ追体験しているみたいだった。地震酔いに苦しみ、余震にビビリまくって過ごしていた。

少しの揺れでも心拍数がはやくなり、体中からじわっと汗がでてきた。
胃散があがってきて、いつも軽い吐き気をおぼえていた。
3月末にあった金沢でのWS時、突然に地震酔いがきて頭が真っ白になってしまい、地に足がつかない挙動不審な数分の醜態を必死にごまかしていた。
寝る時もスポーツブラをし、腕時計をし、枕元に様々なものを準備していた。
お酒だってグラスワイン1杯とか缶ビール1杯すら飲むのを躊躇していた。トイレが近くなるのがイヤだったし、ホロ酔いすら怖くて常にシラフを保っていたかった。
携帯充電に過敏になり、90%位あっても、またしつこく100%になるまで充電していた。
夜更かしのくせに明け方には目が覚めて、Twitterで飛び交う震災情報、pray for Japanの画像、ヒーローのように頑張っている自衛隊員のニュース映像などを枕元のiPhoneでみてはハラハラと泣き続けていた。
「余震が続く中、○○さんはお風呂へ入るのも怖くなっちゃったらしいよ」という話を聞くと、軽い興奮をおぼえて他の何人もの人にその話を大袈裟に伝えた。実は私自身もそうだったからだ。

これらは20年近く前に私が苦しんだパニック発作の症状と酷似している。震災後にあちこちでパニック発作と同じような状態に陥った人たちを見聞きすると、かつての私はそうだったんですよ。私はそれで何年も苦しんだのですよ。それで人生設計変わってしまったのですよ、ああ皆さんも苦しんでいるんですね....と安心感のようなものすらおぼえていた。最低最悪のボコボコにしたくなるような人非人だった。

そんな私のビビリ・考え方・行動が、ある日を境に大きく変わった。
ちょうど震災から1ヶ月ほど経った時。かつてのヨガの生徒さんで、いわゆるネコ友さんと久々に連絡をし合ったのがきっかけだ。

彼女は野良を次々と保護して、もちろん里親探しもしているがそうそう見つかるわけもなく、自宅のひと部屋すべてと他スペース一部を猫に与えて驚くほどの多頭飼いをしている。庭にも外猫たちが住んでいるし、まだ外猫とは呼べないが定期的にゴハンを食べにくる野良もいる。こうした状況、我が家も似たものだが、なんといっても頭数が違う。

彼女は言った。「1匹2匹ならキャリーに入れて一緒に避難することもできるけど、この子たちを置いて私はどこにも行けない。私1人で全匹を助けるのも無理。一緒にここに居るしかないの。逃げようと思うから恐怖もやってくる。選択の可能性を捨てた途端、余震も何も怖くなくなっちゃった」

彼女の考え方を全面的に擁護するつもりはない。これは、なし崩し型の無理心中的な覚悟だ。いっけん肝がすわっているようで、その実、諦め、逃避といえる。決して褒められるものではない。保護者なら、助けて、守って、逃げて、共に生き延びなければならない。

被災者に照らし合わせてみても、たとえば三陸地方の「てんでこ」という教えに反している。
なんといっても、危険区域で避難を余儀なくされた人たち、特に、胸が引き裂かれる思いで愛するペットを置き去りにしてきた人たちの状況や辛苦を思うと、無責任なことは言えない。

にもかかわらず、やはり彼女の意見で私は一気に救われた。
漠然と逃げなければという恐怖のプレッシャーから解放された。
この子たちをこの家で守る。
そして、お世話をさせてもらっている外猫たちの元まで行き、食べ物と水とでき得る限りの安全をあげ続ける。

それ以来、就寝時はいつもの寝間着に戻り、お酒・食事を普通に楽しむ毎日に戻っていった。
自分の恐怖のスケープゴートやカモフラージュとして被災地情報をむやみやたらにリツイートする日々が終わった。自分の立ち位置は何なのか、 自分は当事者ではないのか、いったい何が起こったのか、起き続けているのか、もう一度しっかりと見直してみようという気力がわいてきた。
すっかり安心したわけではない。常に緊張感は残っている。ただ、日常の過ごし方に関する過敏な恐怖を克服したということだ。感心できない克服の仕方と非難されようが、己を楽にしてあげるためには、彼女のような考え方が私には最善だった。

ある日突然にすべてが変わる、すべてを失うことがあり得る、実際にそれがあった。歴史の教科書ではなく、自分の人生で立ち会った以上、もうそれ以前と全く同じ自分にはなれない。
しかし、パニック発作で引き蘢っていた生活から抜け出たように、地震のショックで縮こまってしまった心が解けていくことは可能である。

東海をはじめとした三連動型地震、東京直下型地震、三浦半島の活断層、私が住む府中市が含まれる立川断層についても危険はさらに増している。原発問題は今後も数十年続くだろう。東北の被災地・被災者へ継続したサポートはこれからもずっと続けていかなければならない。今回の大震災がもたらしたありとあらゆる問題は、たぶん私が死ぬ頃まで続き、日々当然の事として向かい合っていくのだろう。まだ4ヶ月に過ぎない。

No comments: