2018/01/19

思いアレコレ

ペコの状態について書いた前回の投稿。
たくさんのコメントをいただいた。
こんなにたくさんの人たちがエールを送ってくださるとは!
何とありがたい。ペコは幸せなニャンコだ。

大阪出張の私がペコの最期に間に合うか、そこを心配してくださっている方々も多い。
私自身が前回ブログでそんなことにも触れたせいでもある。

もちろん最期に間に合えばベストだ。それが理想だ。

しかし、なかなか理解してもらえないけど、本当のホントのほんとに、私は看取れるかどうかを気にしていない。

もう人間が「どうしたい?ペコちゃん、ペコちゃん、しくしくめそめそ」と嘆いている段階じゃないのだ。悲しんでいるのは人間。看取りたいと思い込むのは人間。

ペコは分かっている。受けとめている。おそらく怖がってもいない。
あとはペコ自身、そしてペコと猫の神様とのタイミングだ。

猫は私たちが思っているよりずっと自立している。

(確かにペコの場合、外で暮らす野良ならとっくに死んでいる。私という人間が介入して生を保っているので、文字通りの「自立」とは言えないかもしれないが...)

それでも猫は、自然を受け入れる強い精神力を持っている。私なんかより立派で成熟した存在だ。

ペコが歩けなくなり、目もほとんど見えなくなった話をしたら、知人が「かわいそうに」と同情してくれた。

だけどペコ自身は受け入れている。受け入れた上で、試行錯誤しながら順応して、今ここを精一杯に生きて、あくまで快を追求しているのだから、ちっともかわいそうじゃない。

真っ暗な中で一匹で留守番をしたり、小さな陽だまりに光を感じてリラックスをしたり、這うように移動してゴハンを食べたりトイレをしたり。あっぱれな大人だと思う。

私が最期の瞬間に間に合う云々にこだわらなくなった、その理由のひとつが福島の動物ボランティアの経験だ。飼い主の代わりに猫たちを看取る(依頼された安楽死を含め)というボランティアをしてから死生観が変わった。詳しく書くと、その依頼人への誤解となりかねないし、こればかりは当時の福島の警戒区域について併せて説明しないと伝わらないので、直接会っての会話の時しか話せないが...。

どれだけ多くの看取りをしようと、やはり自分の家の猫たちへの思いは違ってしまう。私は命を区別しているのか?と当時は悩んでいた。

今回は思いつきで書き綴っているので、いつも以上に支離滅裂な文章になっている。
だが、横にペコがいて、推敲している時間がもったいない。同時に、今 書いておかないと、という焦りが募る。やはり私は自分にかかわってくれる人間たちとコミュニケーションがしたい。自分の思いを誠実に伝えたい。良かれと思って言ってくれる意見に対して、私の考え方も伝えたいのだ。

自分の家の猫たちの死でも、いろいろ思い出す。
2歳で急死したチョロの時は、あまりのショックで長いこと立ち直れなかった。思い出してはさめざめと泣いていた。なのに、あんなに悲しんでいたのに、時が経つにつれ、チョロの思い出が薄れていく。自分のお気に入りのシーンばかりが浮かぶ。

このペコの場合は、それとまた違うことになるだろう。
20歳。今年の4月で21歳だ。老猫と向き合う年月。特にこの1年半はペコの介護で私たちの生活がすべて変わった。すべての中心に、すべての優先にペコの存在。

もしペコが生を終えたら、どれだけ解放されるだろうか。
その時がきたら、あれをしたい、これをしたい。まずは睡眠不足を解消したい。ゆっくり自分のゴハンを食べたい。

ペコについての投稿で、古くからの友人知人もお見舞いメッセージやコメントをくれている。それがキッカケで、その友人たちとの数々の思い出が蘇ってきた。
ペコは、私に(人間社会の)たくさんの思い出を届けてくれる。
ペコとの20年は私の人生の一部だ。
ペコの命は私の人生の一部だ。
それを失いかけている。
解放感と、同じくらい、とてつもない喪失感もやってくるのだろう。

猫の森で南里さんから教えてもらった。
「見事なジャンプをした猫には、『生き抜いたね。おめでとう!』と言ってあげて」と。

ペコの命をお祝いするのだ。おめでとう。
私の人生の一部をお祝いするのだ。おめでとう。

だけど、まだ。まだあと少し。
傍らで小さな小さな息をしているペコに、おめでとうはまだ早い。






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