2011/08/12

祈り

仕事柄、私の周囲には何かあると とりあえず「祈る」人がめったやたら多い。ケッ!と思っていた。

特に震災直後は世界中からpray for Japanされまくり、Twitter上でも祈りのオンパレードで、もうケッ、ケッ、ケ〜〜!!! と食傷気味だった。現地でボランティアをしたり、適切な方法で経済活動にいそしんだり、なにがしか自らの体をはって直裁的な効果を生み出すことをしない限り、アンタのように祈ってるだけじゃ何もこの世は変わりはしない。はよ体を動かせ!と思っていた。

しかしこれは過去形。
今、私の中で「祈る」という行いがとても身にしみるようになりつつある。

先祖の墓に手を合わせ祈る。故郷の家族の無事を願い祈る。心をこめて本気で祈る。

それと何ら変わりない。
実際には会ったこともない人々を対象にしてさえ、心をこめて本気で祈るだけの「想像力」を、今回の震災は私たちに与えてくれた。当事者と同等の思いを抱くのは不可能でも、こうした想像力は、自分の人生の中で他者の存在も背負っていく力となっていく。

ネコの話で恐縮だが....、もう何年もの間、私の朝は庭に眠る6匹のネコの墓標にお線香をあげて手を合わせるところから始まる。亡くなったネコを思い出し、語りかけ、いま生きているネコたちの無事を伝え、それらを守ってくれてることに「ありがとう」と言う。まさに祈り、感謝を捧げている。


こうした行いを、生き残ってしまった自分が楽になるための、しょせんは自己満足であると批判する人がいるかもしれない。 宗教や文化の違いをグチグチ言い出す人がいるかもしれない。実際、そういった部分も確かにある。それでもやはり、祈らずにはいられない。他者に思いを馳せるようになって、ようやく自分の存在の尊さが理解できる。やがて自分も他者も、異なる存在が等価であるのだと理解するようになる。

鎮魂。
あるいは慰霊。とても美しく、悲しい言葉。
英語ではレクイエムというが、レクイエムでは何かが足りない。半世紀生きてはじめて、私は日本語の「鎮魂」という言葉の意味を、己の体の一番深いところで四六時中 感じている。

前を向いていかなければならない。絶対に前を向いていくのだ。しかし残りの人生、おそらく日々の営みすべてが同時に鎮魂となっていくだろう。新たな希望の光に出くわした時もアハハと笑いながら、美しきものに接した時もワァ〜と感嘆の声をあげながら、同時に不意の涙が流れてくる。かつてはなかった感覚。

だからといって、わざわざ「さぁ皆で祈りましょう。想いを共有して祈りましょう」とはやはり言いたくない(笑)。これは自分の内部での密かな想いと行為。おそらく多くの人々があちらでもこちらでも厳かにやっている想いと行為。1人ずつが違うプロセスを経て、違う度合いや内容で至る想い。祈りに繋がる行為のスタイルも全員が違ってあたりまえ。

だから1人で祈る。
失われた魂のために、傷ついた魂のために祈る。

今日は日航機事故から26年目。

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